【family】『きらびやかに撓った腕』

ちんじゅう@てんめい

2018年11月16日 10:59

【プロローグ

秋ですねえ。
長野県は冬の気配がする季節です。
SNSのご時世、リンク先のブログを読んでいただいて、まことに感謝でござい☆

今回はいくつかの章に分けて、珍しく(?)家族のことを記録しておこうと思います。

昨年2017年11月に亡くなった
母について。
綴っていくのは
ワタシの母が長く抱えていた心の病と
家族の記録でございます。

ただ、いろいろ考えた結果
あまり感傷ティックではなくて
連連と記録に近い感じで書きます。

公開されている場所にあげる理由は
今週が母の命日であること。
それから
自己満足もあるかもしれないし
他人に事例を知ってもらいたいとか
事例に興味や理解を持ってもらえらたら…という気持ちもあっての所以です。

とはいえ、ワタシらしい感じで(笑)文調が急に変わったりしますが、すいません!

あくまでも、創作せず書きたいと思うので、記憶が曖昧な部分は、度々そう補足していこうと思います。

・・・前置き長くなった!( ´Д`)

さて。
母は、ワタシが14歳の時に発症してから
ずっと
医療名:統合失調症(当時の精神分裂症)
でした。この病気はとても症状が幅広いですが、母の場合は他人との会話がほぼ成立しない重度のものでした。今はもうわからないですが、正直、早期に気付いたり治療するチャンスを逃したかもしれない。それも、この振り返り記録を書いてみた理由。

亡くなった時の原因は内臓疾患でしたので
直接関係はありませんが、遠く関連するのかもしれないとも思う。

いろんな方面でつながっているお友達の方。
ココを覗いて下さるかもしれないので・・・

・・もし興味があれば長めだけどぜひ読んで欲しい。途中でつまらなかったり、面倒な気分になったら、、止めといてください。もう遠慮なく!

そして飛ばしてぜひ「温泉」カテゴリーの記事をご覧ください(笑)そんなかんじで。

ではでは。
※記事は分けずにこのまま章を区切りながら長文で記録します。どうかご了承を。





(ワタシ誕生~母発症までの記憶から)

◎母の性格
ワタシが小さなころから神経質、わりとヒステリック。でも同級生たちの母と比べて特に大差ないという印象。
父や母方祖母からは、母がストレスに弱く、私の誕生前に何度か、突然家を出て遠くまで歩いたり、感情が激しくなったりした事がある…と聞いた事はある。

◎家庭の様子
父、母、ワタシの3人家族。
~中学生までの特出してネガティブな記憶は特に無い。金銭的に決して裕福ではなかったけども、食えなかったとかいう事も一切無かった。父がたまに仕事で不在という事はあった。よく聞くような話だ。なんというか「一般的な家族」域だと今でも思っている。


【最初に首をかしげた事】

ワタシが小学校高学年あたりの頃
母は務めていたパートの仕事を転々とし始め
、あまり長続きしなくなった

たまに聞いた事があったその理由は
人間関係の悩みによるものが多く、昔より日常的にヒステリックになることが多くなったと記憶している

当時、家族は県営住宅に住んでいた
長屋のような造りで、両隣にもご家族が居住という環境。

ある時…ちょっと詳しい時期まで覚えていないのだけど、小学生から中学生になった頃だったと思う。居住してから何十年も経っていたし、片方のお隣さんとは家族ぐるみで親しくしていたはず。

ところが
ある時からその親しかったお隣さんの、生活音が気になる・煩いなどと、父やワタシに言い始めた。

最初はそんなこともあるか、みたいな話をしていたが、それがちょっと異常になってきた感じがして来た頃、同時に、奇妙な(あきらかに 妄想っぽい)話を交えながら近所の事、昔の事を言い始めた。

父は心配し始める。
ワタシは戸惑い、イラつくことも多くなり
家族でも言い合いのようなことが増えた。

(小さいことが他に沢山あった気がするが、ざっくりと記載)


【決定打と病院】

ワタシは中学生に。
部活は合唱団。(クラブは演劇部。でもここでは演劇の話は割愛で、、笑)

中学入学後から、1~2年の間に母の奇行がエスカレートする。

妄想のような発言のほか、突然屋内の物を投げる・壁を叩く・隣人に怒鳴る、、など。
家族も時々とはいえ、明らかにおかしいと思っていたが、家庭内のこと(にしたい)、、、というか、父なり・ワタシなりの戸惑いと、世間体みたいなものだったのかな。この頃、病院云々という話は全然出なかった。

今思うと、当時は現在のようにメンタル系病に関してあまり身近で無かったのもあったかもしれない。

しかしある日の放課後
突然、母の病と向き合う事に。

部活の最中、音楽室に教頭先生が来訪し、校長室に行けと言われる。校長室へ行くと父から電話が入っていて、母が入院したという。

(後日、父は慌てて学校に電話をしたので間違って校長室にかけた事がわかる)

で、
自宅に帰ると父が迎えに来ていてそのまま二人で病院に向かった。

詳細。ざっとまとめ。
隣人であり、母と仲の良かった(はずの)奥様が庭掃除をしていたところ突然母に怒鳴られる>応対するが意味不明のことを言う>口論となる>母が石を奥さんに向けて投げるそぶりをする>隣人から警察にTEL>警察が母を聴取。意味不明の為病院へ>父にTEL>父から学校に>ワタシに連絡

倒れそうなほど衝撃を受けた記憶がある。

同時に
着いた病院は当時、精神科が有名という認識があり、これまでの母の事と病気がつながった瞬間でした。

母はそのまま入院。
時々、見舞いに行く日々がしばらく続く。

これちゃんと書いとく必要あると思うので、以下を追記。

父とワタシはお隣へ謝罪と説明に。
お隣さんは以前から薄々おかしいと感じていたそうで、許すもちろん心配までして頂きました。団地の近隣にもご挨拶に行き、理解をもらい、迷惑をおかけしたにも関わらずそのまま一家は居住を許されました。
(表向きでも)理解された事はありがたかったです。

ただ
父はどうだったかわかりませんが
ワタシはこの話を一切、先生達以外の友人たちに高校卒業まで隠していました。もしくは誤魔化していた。だから、母のいろんなことを取り繕っていました。


【周囲と家族の選択】

母が入院している間に本人の知らないところで幾つかの事件があります。

お恥ずかしい気持ちが大きいんですが…これも事実として書いておく。

父方と母方の親戚が揉め・・・
結果的には、父と母は同居はこれまで通りするのだけど、戸籍上離婚という事になります。いわゆる、相続云々の関係でです。
父本人は全くその気がなかったが、声の大きな親戚の意見でそうなったそうだ。

もうひとつ
母方の親戚の何人かが病院へ見舞いに行き、その後、母を退院させてくれと連絡が来ました。母は出たいと言っているし、いつ退院できるかわからないし可哀そうだ・・と。

父と何度も話をして、ワタシ達は悩みました。

そのころ母の症状は
お薬の為もあってか、最初の興奮状態から
なんというか、しょぼん(と見えた記憶)となってました。だから、父もワタシもだんだん心が揺れます。そんな時に限り本人も 帰りたい と泣いたりするもんだから、主治医の方に散々お願いして(確かまだ早いですと言われた記憶もある)半ば、強引な感じで退院させてしまいました。

だけど
お医者さんの言う事は(今思うに)正しかったと思う。

自宅に戻ってからは、薬をもらってはいたけど、不定期に突発的な言動があり、ある時は父が耐えられずに別居生活したりとか、ある時は高校生のワタシが本気で母にキレたりとか。ちょっと壮絶な時もあったりしました。

さすがに病院へ再入院を試みたりしましたが
一度体験した入院が辛かったのか、嫌がって走る車から飛び出ようとしたり、殺される〜などと窓から叫んだり…という出来事もあって。

ワタシ達は強引に搬送することを何度か諦めるうちに、そのやり取りが家族にとっても辛くなってしまい、自宅でそのまま生活する(させる?)ことになります。そしてその生活にワタシたち家族が慣れていきました。

ここターニングポイントだったと思う。
もう一度強調しておきます。

病気の母の世界に、ワタシたち家族が
合せ、対応することに慣れてしまいました。


【環境が変わること】

ワタシは高校を卒業します。
そんな母がいるまま自宅を空ける、という事をだいぶ悩みながら、何度か進路を父と話した結果、県内の短期大学へ進学することになりました。

その時
ひとりで母と暮らす父の覚悟、半端なかったと思う。父には感謝しかない。

この頃の母の様子としては…
外出や買い物は自分でできるものの、本人との会話はもう誰もきちんと成立しなくなっていた。独り言、たまに奇行があり、自分の事しかやらなくなった。

食事>調理できるが規則正しくない
生活>自由に出入りするが、身だしなみ気にしなくなる。

ただし、暴れるなどの対外的な症状はほぼ無く、異常だけど危険では無いと、近所の方が状況を理解してくださり。
皆さん協力的で、例えば、もしあまりにも様子がおかしければ、特定の方にお伝えしてあるワタシか父の電話に連絡が来るようになっていた。ご近所さんにも感謝しかないや。

ワタシはその当時の自宅から電車で約1時間半くらいの短大に寮生活させてもらっていて、ちょくちょく帰宅しながらも初めての自宅外での生活をそれなりに満喫した。しかし卒業直前、久々に大きな事件が。

母が一人のときに119に電話をし、隣が火事だと大騒ぎしたらしい。父が連絡を受け駆けつけた時には、団地に近隣から消防車が何台も集まり騒然としていたという。もちろん火事など無くて。

翌日慌てて帰宅したワタシと父は、団地のあちこちを訪ね、謝って回った。疲れた記憶しかない。いや、不謹慎かもしれないが(笑)もうその記憶しかない。

さすがに、ワタシ達は団地に住めなくなる。ただタイミング良く、ワタシの就職が松本市に決まっていた為に一家はすぐに松本市に引っ越しを決める。父と何軒も不動産屋を訪ね、なるべく母の暮らしやすそうな一戸建ての借家を探した。適当な家を見つけては、苦情が出たらまた探すつもりで借家の隣人宅に挨拶に出向き、母の病気の話をした。結局、近隣の理解を得た場所があり一軒家引っ越に至る。

住み慣れた町の自宅から新地に移る時は大変だった。一日ががりでよく解っていない母をなだめ、やっとこさ移動。不安そうな母は新地についても数日間、引きこもっていた。

もしかしたら、ここも母を病院へ再入院させるチャンスだったのかもしれない。

だけども、ワタシ達はまた、同じ生活を始めた。この頃になると母を病院に戻す気など全く起きないくらい、母の居られる環境を作り出す事に慣れていました。


【事件簿 総集編】

発症したころは周囲の方々が母に起こった異変を、通常の状態~の変化として認識していた。

しかし引っ越し先では、当初ご近所に挨拶はしたものの、世間から見たら、やはり突如異常な人が現れたという事態なのでした。母自身も(以前松本に暮らした経験はあったものの)初めての場所・・・という事で、結果いろんな事件が起きます。

以下、ざっと記録。

● 引っ越してから母はよく周囲を散歩していたが、ある時帰宅しなかった。父と一生懸命探すが見つからず警察に連絡。朝になってびしょ濡れでタクシーで帰宅。母が降りた後お金を取りに来たタクシー運転手さんに聞いたところ、客待ちのタクシーに乗り込み「徒歩で出たが自宅への帰り道がわからず、外が雨だったので駅の構内で寝ていた。×××(町名)まで行けば自宅に家族がいるからお金を払う」というような事を言って黙り込んだという。警察に行こうかと思ったが、時々道案内をするので乗せてきたという。

● ある日は警察から自宅に連絡があり、喫茶店で挙動不審の為に補導された女性が居り、カバンを調べたら連絡先の書いた紙があったからと電話がきた。何時間も何も注文せず水だけを飲んでおり、店員が話しかけても意味不明のことを言っていたらしい。後で父が気付いたが、昔松本に住んでいた頃よく父と行ったという喫茶店であった。

● ゴミを何度も指定外の日時に出してしまう。家族が持っていくゴミとは別にゴミの袋を作りワタシ達が知らない間に持っていてしまうので、町会にはマークされていた。

● 部屋に水道水を入れたペットボトルを大量に並べるようになる。猫好きなはずなんだけど、猫除けみたいなやつ。片付けても片付けてもまた、並べていた。未だに理由不明。

● 帰宅すると、玄関に「救われよ」みたいなお札みたいなものが何度も挟まれていて、気持ちが悪いなあと思っていたら近所の方が信仰していた宗教の勧誘だと判明する。母の様子を目にしたその婆ちゃんがよく訪ねてきて入信しろと言ってきて、断り続けていた。

● 母の自転車が外出先でよく盗まれた。確か4台。警察届けるも、母の状況を説明すると仕方ないみたいなこと言われたり。結局1台も帰ってこなかったな。

● 鍋をすごい頻度で焦がすようになった。基本はワタシや父が調理していたのだが、母も自分の好きな時間にコンロを使っていた(昔は普通にやっていたし)ので、鍋隠したりしたことも。

● 金銭コントロールがあまり出来なくなっていたので一定額を毎月父が渡していた。買い物はそこから自分で(嗜好品とか、欲しいものを)していたが、消費税の出来たころから小銭をうまく使えず、ハンドバッグのポケットに大量に貯めていた。ワタシや父が定期的に確認して銀行へ行き両替していた。

・・・など。特徴的なエピソードだけ挙げました


【社会的な対応とは】

ワタシは社会へ出てやっと「精神障害に対して受けられる社会制度」の事について興味を持った。母の病気を社会的制度に当てはめてみたことがなかった。悪く言えば、家族は自分の事ばかりであった。言い訳かもしれないが常にその場の事でいっぱいいっぱいだったのだと思う。

ある時、父と病院に行き、相談してみた。申請など、いま出来ることを沢山教えてもらえた。

ただ「いずれにせよ、お母様が都度の認定の為に病院へ出向く必要があります」とも言われた。母が自分の意志では嫌がって行かないので、往診で認定が可能か?と訪ねたがそれは出来ないとの事だった。「自分の意志で行くか、家族が連れて行くか」の二択。

具体的に家族が連れて行く方法の提案をいくつか頂いたが、過去に嫌がるのを連れて行く気力をなくしてしまった出来事を思い出すと、ワタシも父も辛くなってしまい、気が進まなかった。

だから、と言っていいか悩むけど、結局そのままこんな日々が続いた…というか、その都度なんとかまた日常に戻るのでこの環境が普通になったし、父もワタシも機会があれば周囲にも母の話しをするようにもなっていた。それからだいたい10年は、このままだった。


そして、次の転機はワタシの結婚でした。


【親としての母と】

結婚式には母は出ることができませんでした。初めて旦那さんに会わせたときは、こたつに寝たまま声をかけても布団にもぐっていた。それでも旦那さんはとても理解のある人で、わざわざ部屋まで行って話しかけてくれたり…説明しても結婚したことがわかっているかどうかもよくわからん母でしたが、徐々に慣れ、亡くなるまでの間に何度も会ってもらうことが出来ました。・・・これ文字では伝わらないと思うんですが、対面する度に様子がどんどん良くなって、徐々に会う事に慣れていた。ワタシの配偶者だということは絶対理解していたはず!(笑)

それからは、ちょくちょく実家に帰りながら、父母と別々に嫁ぎ先で暮らすことになります。

そして結婚したことで、長いこと「病気の家族」としてみていた母のことを「親」として気にするようになりました。離れているからこそ、毎日顔を合わせないからこそ、両親の健康の事が心配になってきた。

で、もしも病気になったらきちんと医者にかかれるんだろうか?と。

過去に何度試みても医者という場所へ行くことを全力で拒んでいた母。だからしっかりした健康診断だって長い間したことが無いままだったのでした。今は精神以外病んでいるように見えなくても年齢も重ねたし一度は検診させたいなあ、と。そう思った。

最初に書きましたが、この部分、書きにくいんですけど…この頃に強引にでも医者へ連れて行き、健康診断などの管理をさせていたらもっと長生きできたのかも、と今ちょっと思います。もう後の祭りなんですが。でも書いておこう。

この後はループの10年。

気になる>調べる>母を説得>理解が出来ない>相談する>家族ががんばれとなる>行動ができない>保留 
≫最初に戻る・・・

しかし、
状況を打破したのは次の「転機」でした。


【家族は繋がってる】

父が定年を迎え、その後 年齢相応の知力体力となってきます。危機感もあって今度こそ、ワタシは真剣に悩む。

そんな時、祖母が施設に入ることになった。痴呆でした。

実はワタシたちが団地に暮らしていたもっとずっと前。祖母の家には長男である父一家、つまりワタシたちが同居していたのです。が、母と祖父母はうまくいかず(今思うと病気の兆候が関係あったのかも)同じ町の中で別居していました。だから祖父が無くなったあと、叔母が県外の嫁ぎ先から一旦帰郷し、同居して祖母の面倒を見ていました。でも、痴呆がひどくなり自宅で診続けるのが困難との判断で施設へ行くことになったのです。

叔母はそれに伴い自宅へ帰る為、空き家にするわけにいかないという話になります。そして、父がその家に戻る必要が出てきたのでした。

もちろん母は父と一緒に戻ることになり・・・
奇しくもまた、住むことになったのだ。こじ付けかもしれませんが、家族の廻り面白いな、と思います。

細かい事はもう書きませんが(笑) またしても1日がかりの大騒動のうちに、なんとかみんなで母を移動させ両親は元の町に引っ越しました。


【動 く】

引っ越してからの母に、なんと良くも悪くも変化がありました。はるか昔住んでいた記憶もあってか?廊下や玄関の一部を毎日掃除したり、祖父の仏壇に花を買ってくるなど(飾らないが)。驚く半面、一方で心配な新しい奇行なども現れました。

環境の変化として、祖父と祖母が住んでいたころからよく面倒を見てくれていた町内民生委員の方が、父の様子や母の状況をすぐに把握しに訪ねてくれました。そしてよく家に顔を出してくれたり、母が出歩く様子を確認してくれるようになります。民生委員さんは市の頃も近所にいたのですが、件数が多かった為なのか?借家だったからなのか?あまりあちらからはコンタクトが無かったし話したこともあまりなかったように思います。

そういう見守られ方(?)があるということについて、初めて意識するようになりました。

また、治療についてアンテナを張っていたあるとき、SNSの友人が精神的な病気についての医療関係者であり、ご自身も関連の経験からたくさんの記事を書いていることを知ります。慌てて連絡をし、これまでの事を伝えいろいろなことを訪ねてみました。すると思いがけない事を幾つかアドバイスしてもらうことができました。

そんなあるとき、母が散歩(?)の最中に地域包括センターの方が、身だしなみがおかしいな、と母に声をかけます。

耳も悪く、臆病だった母は、道で見かけて家族が声をかけてもいつも無視をして足早に去ろうとする。そのときもそうだったようだ。しかし、どうしても気になったセンターの方は少し後ろを歩いてついてきてくれ、自宅に入ったところで自宅の呼び鈴を押して父を訪ね、病気の様子を聞いてくれました。そして父と話し、ワタシに連絡をくれ、ふたりは包括センターに相談に来るよう呼ばれました。

この地域の「包括センター」の話は、SNSの友人から聞いた情報にもありました。久々に母の話を医療関係の場所でしました。そして一度管轄のお医者さんを呼ぶので話をしましょう、と強く勧めてくれました。でも「今のお母さんの様子だと、もしかしたら入院させようといわれるかもしれない」という言葉に、ワタシと父は一旦怖気づいてしまいます。

母を中心にした「異常な日常を変える事を恐れていた」のは、いつの間にか、ワタシと父になっていた。この時、自分達もちょっとびっくりしました。

それでもこの担当者さんはとても熱心で、それから何度も自宅に母と父、そしてワタシに会いに来てくれました。

ワタシ達はまた重い腰を上げました。そして先生と会い色々相談してみたところ、母が自主的に通院できないと知ると、「家族診療」という方法があること、治療費には「自立支援制度」の適用が可能なこと、などを教えてくれました。

身内だけで調べられることなんて微塵ほどしかないし、そもそも腰が引けていたのだから、ちゃんと調べたら引っかかるはずの情報も入ってくるわけがなかったのだ。

こうして、家族は病院に通い、父は少しづつ食事にお薬を入れるという治療が開始しました。効いてくれば、本人の頭の中で少しづつ考えが纏まってくるのだそうです。そしたら一緒に病院に行けるようになるかもしれないという。

しばらくすると母は、放ったらかしていた身の周りを一部片付けたり、父にメモなどで積極的にコミュニケーションをとってくるようになりました。

そんな頃、白内障の手術で父が病院に数日間泊まることになりました。父が自宅を空けるのは実に何十年ぶりでした。

その間は、ワタシが実家から仕事に通い、留守の面倒をみていました。母と二人で寝泊まりしたのも、実に何十年ぶりでした。
会話というにはあまりにも成立しないけれど、たくさんのやり取りをしました。たくさんの発見や変化を体験しました。

もしかしたら、母は改善しているのかな?
もっと改善してきたら病院へ連れて行って、健康診断をしてみないとね~…退院してきた父と、そんな話をしたり。決して大きく無かったけれど、新しい展開、新しい会話の日々でした。


【うんめい】

2017年11月。ワタシがお誕生日を迎える前日のことです。

会議で遅くなった日。職場の駐車場で車に乗ると、マナーモードにしてあったスマートフォンに、父から何度も着信の形跡がありました。

なんとなく嫌な予感がしてかけ直すと、母が亡くなったと言われました。父の声も驚きに満ちていた。

部屋で倒れていて、寝ているには様子がおかしいと気付いた父が触ると、既に冷たかったらしい。呼べど擦れど動かない為、慌てて(間違えて)警察に電話をしたという。

まだ警察に事情を聴かれている最中のようだった。ワタシは急いで実家へ向かおうと車に乗り込んだが、ザワザワしてしまい、とりあえず旦那さんに電話をした。まだ仕事場にいたので迎えに来てもらい、一緒に帰った。

父と母の二人暮しで、自宅での急逝だった為に事件性が無いかなど、聴取は真夜中までかかった。全ての捜査が終わり、事件性が無いと解り、担当医が来てからワタシはやっとこさ顔を見る事ができた。以前から内蔵に疾患があった様子があり、悪化しての急逝だったそうだ。

先生いわく、苦しんだ様子は無くて、静かに息を引き取ったそう。

こうして、突然、ワタシと父は母とお別れする事になった。もっとはやく健康診断が出来ていたら、とか。本当に悔やまれる事は多い。家族のあんなにながいながい日々は、あまりにも呆気なく突然終わりを迎えてしまった。

近親者のみの小さなお葬式をあげた。参列してくれた友人たちに感謝。とても心強かったです。

そしてそのお葬式で。母が入院したことで疎遠になって以来初めて、父方と母方の親戚が再会した。そして、何十年ぶりに思い出話をし、穏やかに笑う光景をみた。すごく嬉しかったです。

母の人生を思い返して、沢山思うことがあります。もちろん後悔もたくさんある。そのへんはここには書きません。

まだまだ時間をかけて、私自身がゆっくり思い返そうと思う。あしからず。


【エピローグ】

ここまでもし読んで頂いた方いらっしゃったら本当に有難う御座います。とてもうれしい。

全部書くのに三日を要しました(笑) でも頭で思い出すのと、書くことは全く違うものですね。

本当のこと言って、半分くらい書いたところで「これやる意味あるのかな?」と自分に問いかけたりしました。自分で書きながら状況に進展がない事に飽きたのです。(不謹慎だけどさ、ほんとのこと)やっぱり、もっと物語ティックに書けば、飽きずに読んで下さる方もいるかもしれないのに(笑)とか。

だけど書いて読み返す、を繰り返すうちに、家族の小さなことまで沢山思い出せました!もちろん母の様子に関する事しかここには記録していないのだけど、他にも。たくさんの記憶。

「母ちゃんいろいろごめんよ!そしてありがとうさま!」と、改めて思います。

おまけの記述。
葬式を行うにあたり、意気消沈した父を励ましながら、協力してくれた旦那さんと共に、生まれて初めて中心になって段取りや手配をしました。このことは本当にとっても勉強になった。式の御礼でも喋りましたが、これが母ちゃんからの最後の大きな誕生日プレセントだったと思うのです。

最後に、
タイトル『きらびやかに撓(しな)った腕』について。

書き始める前、たまたまWEBをググっていたら「母という漢字の成り立ち」が記載されたページにたどり着きました。そこにはこんな風に書いてあった。

「煌びやかにしなった腕でひざまずいて(子どもを抱いて)いる女性の図から生まれた漢字」



おわり


さーて、これからは父ちゃん孝行しないとな!!



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